2005年8月 8日 (月)

「桜の園」と「桜の森の満開の下」

 ここ最近、気になっている本が2冊あるんですけど。ひとつはチェーホフの「桜の園」、もうひとつは坂口安吾の小説で、”桜の木の下には死体が埋まっている”と言うフレーズが妙に気になって買ってしまった「桜の森の満開の下」だ・・・ さくら、さくらと春からずっと桜付いていた僕だが、ちょうど高砂香料の近くの桜を見つけてから気になっているらしい。中を読むとこうだ、”桜の木の下にはどこか怪しい雰囲気が存在する。なぜか風もないのに風を感じたり、あるいは”はらはら”と花びらの舞う桜の木の下の陰に、なぜか人のいるような気配を感じてしまったり・・とか。  ・・・答えはこうだ、それは桜の木の下に死体が埋まっているからですよ、と言う。本当にそれを感じて実際に桜の木の下を掘ってみると、そこからは人の死体?(なぜか)出てくると言うのだ。なんだか昔聞いた子供の怪談話を思い出して馬鹿らしいとはおもっても、なんだか何の根拠もないのにすぐに本当かもしれないと信じてしまいそうな話だ。
 
そういえば何年か前にどこかのTV局で、坂口安吾の「桜の森の満開の下」の原作のサスペンスもののドラマをやっていたような覚えがあった。ドラマの中では、確か犯人が殺人をやっていて、死体を隠しているのだが、行方不明みたいになっていて、家の財産を狙っていたりするのだ。しかし、そこは名探偵がいて、最後にそのことを見破るのだが、その一番最後で、なぜそれがわかったのかは忘れてしまったが、その死体をかくしていた場所が庭にある桜の木?(柿の木か、ざくろの木だったかも)の下だったのだ。意外な結末と、最後のどんでん返しがとても印象的なドラマだった。本当は愛していたからなのか、その庭の木の下に死体を隠すと言う心理に、どこか人間の悲哀を感じてしまった。 

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2004年6月29日 (火)

サリンジャーについて

 サリンジャーの小説について、気づいた事を書いておこうと思います。
 小説の書かれた年代について書いておきたいと思います。「フラニー」は1955年、「ゾーイー」は1957年、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」が1955年、「シーモア」が1959年、となっている。「フラニーとゾーイー」についてゾーイーとフラニーのやり取りの意味が判らない、あるいはフラニーは本当にゾーイーの電話の内容に納得し、安らぎを得たのかどうか疑問に思ってる人も多いと思います。しかし、もともとこの2つの小説の書かれた年代は違っています。どうも2つの間のつながりがおかしい、あるいはゾーイーの行っている事が判らないというのは、僕はそのためだと思います。この二つの作品はつながっている型を取ってはいますが、やはり違う作品であると言った方が良いと僕は思います。2つの時間はあわないのです。

フラニーはゾーイーのいう事を理解できなかったのだと思います。”電話”は2つのココロが離れて存在している事の証しだと思います。・・・・・近く見せようとしても、どうしてもゾーイーにはその距離を理解する事が出来なかったのだと思います。ゾーイーはまだ若すぎて、・・・多分本当であるだろう、一つの真実を、あまりにも信奉しすぎていて、世の中には哲学的な真実よりもずっと大切なものがあるのだという事に気が付かなかったのだと思います。
十分フラニーの心を癒すのに足りる時間はあったろうし、できたはずであるにかかわらず・・・です。
まあ、そこが多分”男”と”女”の違いなのかもしれません。
と言うわけで、僕の答えは「フラニー」のあとの「ゾーイー」は、まったく別の作品、・・・・というものです。

後一つ、フラニーの恋人のレーンはそんなに悪い奴じゃない・・・というのも大事な事だと思います。

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